褒められることと己惚れることのあいだ。

褒める文化、褒められる文化というのは非常に大切だと思う。人間は褒められることで、より一層頑張ろうという気持ちになり、直接的にモチベーションの維持に繋がる。褒められた人がより一層仕事に励むことができれば、会社組織やチームの雰囲気は更によくなり直接的に業績の向上に繋がる。


いいことづくしだ。


と、いうのが一般的で、ウチの会社ではよく褒める文化を大切にして定着している。ただ、やはり褒めることが優先的に行われることで、褒められる方のいわゆる「勘違い」というのも生まれてくる。

特に入社したばかりの新卒などには積極的に褒めることが推奨される。勿論その分、出来ないことには積極に叱る文化もある。だからバランスがとれている、という認識は個人的には違うと思う。


「叱る」という行為と「褒めない」という行為は、性質上全く異なる領域の言葉だ。


叱るという行為は、その対象者が叱られるべき「理由」に起因するのに対して、「褒めない」というのは、対象者の行為に理由付けは無い。「褒めない」という行為を実行する側=評価する側に起因する。個人的にはこれは結構大切なことだと思う。


「褒められない」という行為は、対象者=被評価者にとっては結構キツい。
「これだけやったのに。」「こんなにできたのに。」という不満が上りがちになる。


ただ、対象者が知りうる限りの狭い世界の中だけで比較してその結果の評価を得ようと思っていても、実は対象者の知らない広い社会では「それくらいのこと」で終わるケースも結構多い。

勿論、広い社会で比較するのではなく、ただただ狭い領域の中だけで生きていきたいというのであれば、それも全く問題無いだろう。ただその認識は、個人の成長、という人生の大きなテーマの中では取り戻せない過ちになる可能性も高くなる。

褒めるという行為は、精神的な麻薬のようなものだ。その麻薬の常習者になってしまうと、手放せないために狭いコミュニティの中だけで生きようとして、外に出たときのストレスには耐えられない。一方、麻薬を与える側に実害は無い。麻薬に毒されたものだけでコミュニティを作り、運営していけばいいのだから。


今働いている会社や業界でどれだけ評価されても、人間の評価なんて水物だ。時と場合、置かれる環境が変わればその評価なんてものも脆いものだ。その代表的なものが肩書きで、そんなものは犬も食わない。

日本をいう国は肩書きをその人の実力と見誤ってしまう人が最も多い国のようだ。かの有名なスパイ・ゾルゲは、日本が最も機密情報を入手し易い国、と言った(らしい。)その理由は、最も自尊心が高く、大切にし、少しでもそれを傷つけるようなことを切り出すと、自尊心を守ろうとして自ら情報をどんどん喋るのだそうだ。


言い得て妙、と納得。


個人的には、一緒に仕事をする人というのは社会的に評価される人であって欲しいと思う。
自分自身もそうでありたいと思う。勿論、だからと言って全く褒めないというわけではなく、褒めるということは対象者に対して非常に大きな意味を持つということを強く認識しなくてはならないと思うのです。


自分を常に社会で働く人間として認識して、その中で自らのプレゼンスを高められるように意識して欲しいし、自分自身もより意識していかなければならないと思う。